虚数の蕾 - Imaginary Buds

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

雨上がりの午後の教室。窓際の席に座る、高橋 律(たかはし りつ)は、手元の数学の問題集に視線を落としていた。複雑な数式が並び、まるで暗号のようだ。鉛筆を握る手に力が入り、紙に薄い線が何本も引かれる。
(どうして、こんなにも難しいんだ…)
律は心の中で呟く。得意なはずの数学が、今日はやけに手こずらせてくる。集中できないのは、きっと窓の外の景色が原因だろう。新緑が眩しく、風が優しくカーテンを揺らしている。
ふと、律の視界に、一輪の白いが入った。校庭の隅に咲く、名も知らない花の蕾。今にも開きそうなその姿は、まるで希望を象徴しているかのようだった。
しかし、律の心は晴れなかった。 数学への情熱は確かにあった。将来は数学者になりたいという夢も抱いていた。だが、その夢は、同時に律を苦しめてもいた。
「律、ちょっといい?」
声の主は、隣の席に座る少女、佐々木 咲(ささき さき)。長い黒髪を揺らし、優しげな瞳で律を見つめている。咲は、律にとって、かけがえのない存在だった。
咲は、律の数学の才能を誰よりも信じ、応援してくれた。律が落ち込んでいるときには、いつもそばにいて励ましてくれた。咲の存在は、律にとって、光のようなものだった。
しかし、その光は、同時に律を縛り付けてもいた。律は、咲の期待に応えなければならないと思っていた。咲を失望させてはいけないと、強く感じていたのだ。
「この問題、ちょっと詰まっちゃって…教えてもらえないかな?」咲は、律にノートを差し出した。
律は、一瞬ためらった。今の自分は、人に教える余裕などない。だが、咲の頼みを断ることはできなかった。咲の期待を裏切ることは、律には耐えられないことだった。
「…ああ、いいよ」律は、ノートを受け取り、問題に目を通し始めた。
咲は嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう、律。いつも助かるよ」
律は、咲の笑顔を見ると、心が痛んだ。この笑顔を守りたい。そのためには、咲の期待に応え続けなければならない。そう思うと、律の依存はますます深まっていった。
(僕は、咲に依存しているんだ…)
律は自覚していた。咲がいなければ、自分は何もできないのではないか、と。咲の言葉、咲の笑顔、咲の存在が、律の数学への情熱を支えている。しかし、同時に、律の自由を奪っている。
放課後、律は咲と一緒に、駅に向かっていた。二人の間には、いつもなら絶えない会話がなかった。律は、自分の依存について考えていた。そして、その依存が、数学への情熱を歪めていることに、気づき始めていた。
「ねえ、律」咲が、突然声を上げた。「今度の日曜日、一緒に出かけない?」
律は、驚いて咲を見つめた。「え…?どこへ?」
「どこでもいいよ。律が行きたいところ。最近、律、ずっと数学ばかりやってるから、息抜きになるかなと思って」
咲の言葉に、律は胸が締め付けられるような思いがした。咲は、律のことを心配してくれている。しかし、律は、咲と一緒にいることが、自分にとって本当に息抜きになるのだろうか、と疑問に感じていた。
「…ごめん、咲。その日は、ちょっと用事があるんだ」律は、目を逸らしながら言った。嘘だった。日曜日は、特に予定はなかった。ただ、咲と一緒にいることから、少し距離を置きたかったのだ。
咲は、少し寂しそうな顔をした。「そう…残念。でも、仕方ないね。律は数学者になるために頑張ってるんだもんね」
咲の言葉に、律は罪悪感を覚えた。咲は、自分の夢を応援してくれている。なのに、自分は、咲を拒絶してしまった。律は、自分の心が、どんどん濁っていくのを感じていた。
その日の夜、律は自室で、カッターナイフを握っていた。 自傷行為。それは、律が抱える苦しみを一時的に麻痺させるための、歪んだ逃避だった。
(また…やってしまった…)
律は、自分の腕に刻まれた浅い傷跡を見つめ、後悔した。こんなことをしても、何も解決しない。ただ、自分を傷つけるだけだ。そうわかっているのに、やめられない。
律は、自分が壊れていくのを感じていた。 数学への情熱も、咲への想いも、何もかもが、ぐちゃぐちゃになって、律の心を蝕んでいく。
数日後、律は図書館で、ある一冊の本を見つけた。『依存症からの脱却』。その本を手にしたとき、律は、自分が変わらなければならない、と強く思った。
律は、本を読み進めるうちに、自分の依存の深さに改めて気づいた。咲に依存することで、自分の感情を麻痺させ、現実から逃避していたのだ。そして、その依存は、恋愛感情とも複雑に絡み合っていた。
(僕は、咲のことをどう思っているんだろう…これは、依存なのか、それとも、恋愛なのか…)
律は、自分の気持ちがわからなかった。咲は、律にとって、太陽のような存在だった。咲がいなければ、律は生きていけないかもしれない。しかし、それは、恋愛とは違うような気がした。
律は、咲との関係を見つめ直すことにした。まず、咲に自分の依存について話すことから始めた。最初は、戸惑っていた咲も、律の真剣な思いを受け止めてくれた。
「律…私、そんなに依存されてたなんて、全然気づかなかった。ごめんね…」
咲は、涙目で律を見つめた。律は、咲の肩を優しく抱き寄せた。「咲は、何も悪くない。悪いのは、僕なんだ」
律は、少しずつ、咲との距離を置いていくことにした。今まで、毎日一緒に帰っていたのを、週に何回かに減らし、連絡の頻度も減らした。
最初は、とても辛かった。咲がいなくなるのが怖かった。しかし、時間が経つにつれて、律は、自分の心に変化が起きていることに気づいた。咲がいなくても、数学に向き合えるようになってきたのだ。
律は、図書館で、以前から気になっていた数学の難問に挑戦することにした。一人でじっくりと考える時間が、今の律には必要だった。
数時間後、律は、ついにその問題を解き明かした。 数学の難問を解決できた瞬間、今まで感じたことのない達成感に包まれた。咲に依存する事で得ていた達成感とは全く違っていた。自分の力で掴み取った達成感は、律の自信へと繋がっていった。
「できた…!僕は…できたんだ…!」
律は、思わず声に出して叫んだ。周囲の視線など気にならなかった。今の律は、数学の喜びに満ち溢れていた。
それから、律は自傷行為をやめた。 自傷行為をする代わりに、数学に向き合うことにした。 数学こそが、律にとっての最高の逃避であり、同時に、現実と向き合うための手段だった。
数か月後、律と咲は、以前のように親友として付き合うようになった。お互いを依存するのではなく、尊重し、支え合う関係。それは、恋愛とは違う、かけがえのない絆だった。
ある日、律は咲に、自分が数学者になるという夢を、改めて語った。咲は、嬉しそうに微笑み、律を応援した。「律なら、きっと数学者になれるよ。私は信じてる」
律は、咲の言葉を聞いて、自信に満ち溢れた。かつて、咲に依存することで夢を追いかけていた律はもういない。自分の力で、夢を掴み取る覚悟を決めた、一人の数学を愛する少年がそこにいた。
(ありがとう、咲。僕は、必ず数学者になる。そして、いつか、咲に恩返しをする)
律は、そう心の中で誓った。 依存という名の虚数は消え、律の心には、未来へと向かう、確かな蕾が咲き始めた。